■再演・邪宗門■
柳楽 正人
「再演・邪宗門」
00-プロローグ
ヴァイオリニストの佐藤一紀から電話があったのは2012年3月のこと。翌年の2月に行なう大掛かりなコンサートに、マネジメントスタッフとして参加してほしいという内容だった。そのコンサートとは、2011年1月に初演された、平野一郎の作曲によるモノオペラ「邪宗門」の再演だ。
電話を切った後も、佐藤の熱っぽい口調が妙に印象に残っていた。私は多分その瞬間から、モノオペラ「邪宗門」を取り巻く人々の尋常ならざる情熱を感じ、惹かれていたのだと思う。それは、久しくクラシック界では感じたことのなかった種類の熱気だった。
お金も手間もかかる大掛かりな現代作品を再演するという熱気、しかもそれが作曲家ではなく、演奏家からの話として伝わってきた。そのエネルギーを目の当たりにしたとき、マネジメントスタッフとしての立場とは別の、芸術家に対するいち個人の興味として、その情熱の根源を解き明かしてみたいという思いを強く持った。
これから連載する「再演・邪宗門」は、モノオペラ「邪宗門」を主催する芸術家集団「音色工房(おんしょくこうぼう)」の5人のメンバーに個別にインタビューを取り、それをノンフィクション風に再構成したものだ。作品の音楽的・技術的な解説ではなく、音色工房のメンバーの感情の流れを追うことで、芸術家の原動力を探り、モノオペラ「邪宗門」再演の意義を伝えようとする試みである。
「再演・邪宗門」 01-まつりのあと
2011年1月。モノオペラ「邪宗門」と題された作品が、京都と大阪で初演された。2時間を越える作品をひとりで歌い切ったソプラノ歌手の吉川真澄は、京都での初演が終わった日の夜に、作曲家の平野一郎に電話をかけた。平野はその時のことを覚えている。
「吉川さんは、『艫(ろ)を抜けよ』を歌っているときに涙が出たと言ったんです。自分はまずそんなことは起こらないんだ、だけど今回の邪宗門はひとりで練習をしていても何度もそういうことがあった、今までそういう経験をしたのはシューベルトの歌ぐらいだ、とまで言ってくれたんです。それは本当に嬉しかった」
吉川が涙した『艫を抜けよ』は、全部で33曲ある邪宗門の第23曲に当たる。京都の公演では、次の第24曲『一炷(いっす)』が終わったとき、自然発生で客席から拍手が起こった。吉川は舞台で歌いながら、自分が幽体離脱をしているような感覚だったという。
「自分を通り越して、何かに歌わされているような感覚になった、本当に数少ない作品です。声に出して歌ってみると、どこかから何かが入ってくるみたい。練習のときから涙が止まらなくなったりしていました。平野君の書き方も、それこそ何かに取り憑かれて書いているところがあるような気がするんです。これはすごい作品だと思いましたね」
吉川のこの感覚は、自分が作曲しているときと同じものだと平野は思っている。
「どの曲もそうなんだけど、僕も曲を書くときに必ずそうなるんですよね。多分そういう風に動かされるというのは、自分の感情とは違うんだと思うんです。それを確実に演奏者が感じている......」
この新しい舞台作品を見た人々は、それぞれに激しい反応を示した。
ぜひもう一度見たいと熱烈に歓迎する人。言葉が聞こえないと怒る人。これまでの平野作品との感触の違いに拒否反応を示す人。邪宗門の世界に現れるキャラクターを全て表現し切った吉川の労をねぎらう人。様々な要素が複雑に絡み合った舞台を目の当たりにして、予習をしてこなかったことを後悔する人。
もしも聴衆全員から感想を聞くことができたとしたら、おそらく一番多いのはこんな声だったのではないだろうか。
"何が起こっているのかよくわからなかったけれど、とにかく凄い体験をした!"
モノオペラ「邪宗門」に関するデータを書いておこう。
正式なタイトルは「女声と映像、15楽器によるモノオペラ<邪宗門>」という。公演のサブタイトルとして「~南蛮憧憬(オクシデンタリズム)の彼岸へ~」と添えられている。
北原白秋の処女詩集「邪宗門」から選ばれた32の詩に、管弦楽のみで奏される1曲を加えた、全部で33の場面から成る。作曲者が記したデータによると、総演奏時間は1時間50分28秒。実際の上演は2時間を越える。
作曲したのは平野一郎。1974年生まれ、京都を拠点に活動している作曲家だ。これまでに管弦楽曲、室内楽曲など多くの作品を手がけているが、邪宗門は彼にとって初めての声楽作品だった。
2011年1月29日、京都のバロックザールにて初演。この公演は、平野が2007年度に受賞した青山音楽賞の「研修成果披露演奏会」として開催された。翌1月30日には、大阪のザ・フェニックスホールで上演されている。
15楽器の内訳は、ヴァイオリン4、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット、ピアノ。それに指揮者を加えた16人が、上演に必要な管弦楽団の人数ということになる。舞台には特殊な形状のスクリーンが設置され、映像が映し出される。モノオペラとは単一の歌劇と直訳される通り、登場する歌手は1人だけだ。
モノオペラのたったひとりの歌手として、北原白秋の詩の世界と、平野一郎の音楽の世界を一身に受けとめた吉川は、上演が終わった後もしばらく余韻から抜け出すことができないでいた。
「変な表現だけど、熱狂的な祭りに行った後に、自分の周りが空気から変わっているというか、まだその空気の中にいるみたいな状態があるじゃないですか。終わってからそういう状態がずっと続いたんですよ。でも、なぜかと言われたら、それはわからない。そうじゃない作品とどこが違うのかと言われてもわからないんですけど、実感、体感としてそういう違いがあるんです。聴いていた人も、その世界観と空気感の中に漬け込まれてしまった感覚があったんじゃないかな」
邪宗門の公演を企画したのは、音色工房(おんしょくこうぼう)というユニットだ。立ち上げ当初のメンバーは、作曲家の平野一郎とヴァイオリニストの佐藤一紀の2人。佐藤は邪宗門には音楽監督・指揮者として参加している。邪宗門の初演後、音色工房はソプラノ歌手の吉川真澄、ピアニストの堤聡子、映像作家の前田剛志をメンバーに加え、同世代の芸術家5人によるグループになった。
しかし邪宗門に関して言うならば、音色工房が平野と佐藤の2人だったときから、実質はこの5人を核として動いていたプロジェクトだった。この作品は5人の共鳴と葛藤を抜きにして語ることはできない。誰か1人でも欠けていたら、きっと邪宗門という作品が誕生することはなかっただろう。
「再演・邪宗門」 02-平野一郎と西洋音楽を結ぶもの
モノオペラ「邪宗門」の世界を知るためには、その世界を作り出した作曲家、平野一郎の声に耳を傾けておく必要があるだろう。
平野は1974年、京都府宮津市で生まれた。京都市立芸術大学を卒業し、同大学院を修了。その間、ブレーメン芸術大学に留学していた時期もある。2001年に発表したヴァイオリン独奏曲「空野」を皮切りに、八岐大蛇(やまたのおろち)や平家物語など、日本の伝説や神話を題材にした世界を発表している。
作曲の勉強を始めたころの平野は、どっぷりと西洋音楽の世界に浸っていた。西洋音楽家を志す若者としては至極当然のことだ。そして芸術大学に進むことで、少なくとも4年間はその世界に浸り続けることができるはずだった。
しかし結果的に平野はそうならなかった。どっぷりと西洋音楽の世界に浸っていたが故に、日本人が西洋音楽をやることの意味という、避けて通ることのできないテーマにぶつかった、という言い方もできるかもしれない。
「あるときから、自分の表現の根っこにすごく関心が動き始めました。西洋音楽を深く知れば知るほど、西洋音楽がいかに土地と結びついているかということを、すごく痛感するようになったんです。田舎に育って共同体の生活というのがすごく濃厚だった自分にとって、西洋音楽は最初は個を守るためのものとして現れたと思うんです。だから、西洋音楽を聴いたり奏でたりということが、僕の中では自分だけの世界という部分に近かった。でも、そういうものであったはずの西洋音楽を突きつめていくと、実はその中でまた別の共同体に繋がっていて、それは自分のものとはちょっと違うかもしれないということに気付き始めたんです。
じゃあ自分にとって本当に根っこから来た音だという実感のある表現は、どこにあるんだろうということを思ったときに、どちらかというとずっと避けていた、自分の記憶の中に濃厚に残っている、生まれ故郷の集落の祭りの音楽、盆踊りの歌、そういうものだということに気付いたんです」
こうして大学生活が終わりに差し掛かっていた頃、平野は日本各地に伝承されている音楽を訪ね歩く、フィールドワークの旅をはじめた。
日本の民間伝承音楽は、明治期の西洋音楽の移入とともに社会の片隅に追いやられ、分断されたと平野は考えている。しかし祭りを丹念に調べていくうちに、かつて分断されたはずの音楽は、むしろ西洋音楽の本質とダイレクトに繋がっているという実感を持ったという。そして、分断されたものを結んでいきたいと考えるようになった。
「例えば、自分の演奏会にどんな人に来てほしいかと考えたときにまず思い浮かぶのは、これまで訪ね歩いてきた、漁師として生きていてお祭りをしているような人たち、あるいは神社の宮司さんや、お寺の住職なんです。実際に邪宗門でも、それまでの演奏会でも、そういう人たちがたくさん来てくれて、それぞれに喜んでくれたんですね。伝承されているものをやっている人たちにとって、西洋音楽が遠くないものとして聴こえているという実感がすごくあった。そういう輪を結んでいきたいと思っているんです」
分断された伝承音楽と西洋音楽を結ぶことは、すなわち日本人と西洋音楽を結ぶことにも繋がっていく。
「クラシック音楽という、明治になって西洋から渡ってきたものが根付いたというには、今でも僕はまだ足りないような気がしています。だけど放っておいたら根付くのかというと、そうじゃないと思うんですよね。結局、誰かがそういうことを考えて、何かの働きをしたことから歴史は変わっていくと思う。西洋音楽が自分たちの音楽になっていくための結び役というのを、自分ならできることかもしれないし、自分はそのために動いていたのかもしれないということに気づいたんです」
ピアニストの堤聡子は、平野とは京都芸大の同級生という間柄だ。音色工房のメンバーの中では、平野との付き合いは最も長い。堤は大学時代に平野と交わしたこんなやり取りを思い出すことができる。そこには、西洋音楽の世界で自分の居場所を探そうとしていた、若き日の平野の姿がある。
「高校生の頃、いとこのお兄さんから何気なく『サトちゃんは日本人でありながら西洋音楽をやることに違和感はないの?』って聞かれたんです。それって大問題じゃないですか。でも受験のためにレッスンで言われたことに一喜一憂しかしてなかった自分には、当然その場で納得できる答えを言えなくて、ずっとお腹の中に持ち続けたわけです。
それで大学に入って、何人かの友達に聞いてみたんですよ。でも演奏家はそれについて、どうしてもお茶を濁した感じになってしまう。そこに真正面から答えようと努力していたのが平野君だったんです。そのときはよくわかんないことを言っていたけど、でもそれは自分にとって、当時の平野君に対する認識の柱になっていました。この人はそれを真正面に受け止めて、何か答えを出そうとしている人なんだって」
日本人が西洋音楽をやる意味を真正面から受け止め、自分の表現の根っこを探し求めてきた平野の姿を知っているからこそ、堤はこんな夢を託すことができる。
「例えば、ハンガリーのピアニストにはバルトークがいていいなって思うんです。これは自分たちの国の、ある時代の空気を内包している自分たちの音楽なんだ、だから自分たちはこれを弾く意味があるんだと信じることができる。しかも革命的でありながら恐ろしく高度に洗練されてもいて、ベートーヴェンみたいな古典にも見劣りしない普遍性を備えているんですね。だからこそ、他の地域に出て行ってそれを堂々と演奏することができる。日本にも、自分の国のある種のメンタリティーを代表する、そういう作品があったらいいのにと思うんです。それって演奏家の夢じゃないですか。それを一緒にできるのは平野君かな」
「再演・邪宗門」 03-モノオペラを作る夢
モノオペラ「邪宗門」は平野にとって初めての声楽作品である。その初めての声楽作品が、なぜモノオペラという大規模な形態になったのか。それは音色工房の共同主宰者、ヴァイオリニストの佐藤一紀の存在なくしては語れない。
平野と佐藤が最初に協同をしたのは、2001年のヴァイオリン独奏曲「空野」だ。作品番号1を付けた大切な作品の演奏を、平野は京都芸大の先輩である佐藤に依頼した。それ以降、邪宗門までのヴァイオリンが入った室内楽作品は、全て佐藤によって演奏されている。
2006年にピアノと弦楽四重奏のための「鱗宮(イロコノミヤ)」を初演した際も、平野はもちろん佐藤にヴァイオリンを依頼した。2人が会うのは、2003年に作曲された弦楽四重奏「ウラノマレビト」の演奏以来だった。
そこで、種は唐突に蒔かれたのだった。
「久しぶりに佐藤さんと話した日に、『平野君、モノオペラ作らない?』ってポンと投げかけてこられたんですね。モノオペラって何なんだろう?とか色々なことを思いながら、それは僕の中で呪いみたいにずっと残っていったんです。
佐藤さんの面白いところは、"何を"ということは絶対に言わないんですね。つまり内容のことは言わない。いい意味で常に表層に徹するんですよ。考えてそうしているのか直感的になのかはわからないけども、必ずそうなんですね。だから僕の中では、どんな可能性もあり得るんです。色んな候補が自分の中で出てきていました」
このとき何か上演の当てがあったわけではない。音楽家同士が顔を合わせれば取り交わす、いつもの他愛のない会話にすぎなかった。
「最初は結構、雑談から始まるんですよ」と佐藤はいった。
「プロジェクトとかじゃなくて、こんなことできたらどうだろうね?こんなオペラかっこいいんじゃない?みたいな。まあ夢物語ですよね」
ところで、ヴァイオリニストである佐藤からの投げかけが、なぜモノオペラだったのだろうか。彼は「ヴァイオリン協奏曲を書かない?」と言ってもよかったはずだ。それは佐藤が育ってきた音楽環境が関係している。
「僕はオペラが大好きなんですよ。一番好きなジャンルを聞かれたら間違いなくオペラって言う。その次にバレエ。いわゆる舞台音楽が好きなんです。物心がついた頃から結構色んな曲を聴きだして、中学の後半ぐらいからもうオペラの世界に入っていましたからね。古典ものから近代、現代ものまで相当見ているし。声と楽器が合わさったときのあの高揚感は、他の音楽では絶対にありえない。自分の好みとして舞台音楽というのがあるから、せっかく作曲家と色んなプロジェクトをやってきている中で、『平野君、オペラってどうなの?』みたいな話は当然するわけですよね」
この日、佐藤は平野に対してもうひとつ問いかけをしている。佐藤のその問いは、まだ声楽作品を書いたことがなかった平野にとって、少なからず刺激のあるものだった。
「佐藤さんが最初に僕に持ちかけた『モノオペラを書かない?』と言われたときの第一声は、『オペラって全部聞こえないといけないと思う?』だったんですね。言葉が全部聞こえないといけないと思う?と言われたんです。
僕は基本的にそういうものじゃないといけないと思いがちなタイプだったんです。でも、そう投げかけられたときに、はっと悟ったんですよね。そこまで自分は歌曲も何も書いてないし、それは日本語と音楽の間の問題が解決していないからだと思うんだけど、そこで一挙にバッと解凍されたようになったんです。言葉である前に響きであるということ、しかも響きそのものは言葉の意味が伝達するより前に人には届くんですよね」
最初は佐藤自身の夢物語として投げられたモノオペラという言葉は、平野の中で静かに脈を打ち続け、そしてとうとう実現できるかもしれないチャンスがやってきた。
2007年に京都のバロックザールで開催した自主公演「作曲家 平野一郎の世界 ~神話・伝説・祭礼......音の原風景を巡る旅~」で、平野は青山音楽賞を受賞した。青山音楽賞はバロックザールの母体である青山財団が主催している賞で、受賞者には受賞後3年以内の海外音楽研修と、研修終了後1年以内の研修成果披露演奏会が定められている。
「佐藤さんに言われるまでもなく、自分の中でも声楽作品を書きたいというのは、もちろんあったわけです。2007年に青山音楽賞をいただいたころに、その受賞公演(研修成果披露演奏会)でそういうことができるんじゃないかと思いました。
そのタイミングで白秋の邪宗門に出会って、自分の中でそれがうわっと噴出してきたんです。それでこれが自分の世界に成り得ると完全に確信した時点で、実は邪宗門という題材があって、これがいいかもしれないと佐藤さんに言ったんです」
自分たちのオペラを作りたいという佐藤の夢と、初めての声楽作品を書きたいという平野のタイミング、そして北原白秋の邪宗門というテキストとの出会いが重なって、モノオペラ「邪宗門」の原型は姿を現した。それはオペラとも歌曲とも言えないような、2人にも全く想像ができなかった新しい創造物だった。
「再演・邪宗門」 04-指揮者と15人の管弦楽
モノオペラ「邪宗門」の楽器編成をあらためて確認しておこう。弦楽器はヴァイオリン4、ヴィオラ2、チェロ2、コントラバス。管楽器はフルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、トランペット。それにピアノを加えた15楽器。オーケストラと呼ぶには小さいが、室内楽と呼ぶにはやや大きすぎる編成だ。
この一風変わった編成を発案したのは佐藤だった。自分たちでオーケストラを雇うだけの予算がないという、シンプルな事情があったことは確かだ。しかしそれと別の観点で、大編成のオーケストラでオペラを作ったとしても、永く未来に残っていかないのではないかと佐藤は考えていた。
「今のオーケストラという形態は、多分残り続けないと思っているんです。おそらくもうちょっと小型化するか分割するかで、大規模なオーケストラというのは、どんどん世界から消えていくと思う。もちろん残るんだけど、数が減ると思うんですよ。だから僕らがやっているぐらいの編成のオーケストラだとか、室内楽の作品が増えると思うんですよね。未来にはフレキシビリティが求められるんです」
佐藤が提案した楽器編成によると、弦楽器群はコントラバスを基点として、弦楽四重奏(ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロ)が2組、左右対称に配置される。弦楽四重奏が2つあることで組み合わせの幅が広がり、弦楽器だけでも多彩なバリエーションが可能になる。
「これは弦楽器のほとんど全ての室内楽作品が演奏可能の形態なんです」と佐藤はいう。
「そこに管楽器を何人か置こうという話になった。そうすればフルート三重奏もできるし、オーボエ四重奏もできるし、クラリネット五重奏もできる。もうこれは完全に室内楽だよ。平野君がずっとやってきた室内楽の延長でありながら、オーケストラ的な合奏もできる最小限の形なんです」
オーケストラとしては不完全な編成であることを逆手に取って、常に集団で演奏しなければならないというオーケストラの常識から離れてみると、そこには様々な室内楽の可能性を秘めた世界が広がっていた。
これまで平野の室内楽作品を数多く演奏してきた佐藤ならではのこのアイデアを、平野はどう受け止めたのだろうか。
「普通、演奏家からもしもそんなこと言われたら、絶対に受け入れられないでしょう。だけど佐藤さんの場合は、なぜか妙な信頼みたいなものを感じていて、佐藤さんが言うということは何かしらの直感が働いているに違いないと思うわけです。それが理に適っていれば受け入れるんですね。その理というのは、自分の中の必然ということとも関係する。佐藤さんはその時点で、当時の僕の作品世界の全体像を充分に把握した上で提案をしてきていることがはっきりわかったんです」
しかし平野は、この魅力的なプランをすんなりと受け入れることはできなかった。
「もちろん僕も、この編成でできたらやりたいに決まっている。だけど正直いって、経済的にとても成り立たないし、無理だと思ったんです」
過去には出演人数がもっと少ない演奏会を開催して、赤字を出したこともある。自分の作品の公演を行なう責任者としては、当然慎重にならざるを得ない。
こうした楽器編成の問題とともに、新しいモノオペラを上演するためには、もうひとつの問題をクリアする必要があった。それはこのアイデアを提案した佐藤が最も痛感していた。
「邪宗門は絶対に指揮者がいる。その前に演奏した平野君の曲(ピアノと弦楽四重奏の「鱗宮」)は、演奏不可能なぐらい難しかったんです。もうリハーサルにならないんですよ、難しすぎて。あんな複雑なリズムを今度は15人で共有して、しかも歌と楽器を合わせるなんて絶対に無理です。多分演奏不可能だと思います。だから誰かが指揮をしなきゃいけないけど、限られた予算の中でこんな難しいことをやってくれるプロの指揮者なんているはずがない。だからといって、指揮をちょっとかじってますみたいなアマチュアの人にやってもらっても、多分まず音楽が理解できない。
そのときに僕の頭にピーンときて、『俺、振っちゃおうか?』みたいなことを言っちゃったんです。そしたら平野君はまんざらでもなくて。平野君は冗談が通じないから、俺が振るよって言ったら、『じゃあできますね』だって」
平野の記憶の中では、このやり取りは少し雰囲気が違っている。それは、こんな大きな編成では経済的に難しいと、平野が佐藤に打ち明けるシーンから始まる。
「そうしたら佐藤さんは、いや、平野君できるよと説得にかかって、プレーヤーが何人で経費がいくらでとたくさんの計算を紙に書いて、その最後に『で、指揮を俺がするでしょ』と言って書き加えたんです」
どちらの記憶が正しいかは大した問題ではない。冗談めかした佐藤の語り口調を、額面どおりに受け取るわけにはいかないだろう。佐藤はこのころ、指揮者としての勉強を少しずつ始めている。自分が邪宗門の指揮をするという可能性は、決して冗談ではない選択肢として、薄々は考えていたのではないだろうか。
いずれにしても平野は、ヴァイオリニストでありながら、佐藤がそこまで言ってくれるのかと思ったのだった。つまり佐藤なりのやり方で、音色工房の共同主宰者としての責任の負い方を表明してくれたんだと平野は理解した。これは単に指揮者が決まったということ以上に、精神的に重要な出来事だった。それなら、と平野は思った。
「それなら、もしかしたら実現できるかもしれない」と。
「再演・邪宗門」 05-作曲家と演奏家の関係
ヴァイオリニストの佐藤一紀は、平野にとって京都芸大の3つ上の先輩にあたる。2人の在学中に特に重要な接点はない。2001年に佐藤が初めて平野の曲を演奏したのを皮切りに、これまでに何度も協同を重ねてきた。今では音色工房という芸術家ユニットを主宰する2人だが、面白いことに決してお互いのことを仲良しだとは言わない。平野に2人の関係を問うと「今でも相当の緊張関係があるんです」と返ってくる。佐藤に聞いてみても、やはり答えは同じだ。
「どんな関係ですかと言われると、半分信頼もしているけど、半分コノヤローと思っているところが、多分お互いにあると思う。こんな曲書きやがって、演奏家は何でも弾けると思ってるだろみたいな、愛憎一体的なところはあります。彼も僕のことを100%信じているとは絶対に言わないと思いますよ。半分も信頼してないんじゃないかな。だからと言って嫌いじゃないし。
ただ僕は、人間関係ってそれがちょうどいいと思っているんですよ。特に音楽家同士の関係は、べったりというのは絶対ありえないと思う。ここは全然合わなかったり、ここはすごく合ったりみたいな方がいい。平野君とはずっとそれでうまくきている。趣味も全然違うし反対意見なんてしょっちゅうだけど、別にそれがお互い嫌なんじゃなくて、そういう見方もあるのかとか、すごく刺激しあえるのは事実だし。面白いよね。僕がたまに突拍子もない思いつきを言うことが、彼は結構好きみたいで、そのひらめきとか発想を買ってくれているところはあるのかもしれないね」
考え方も立ち位置も違う2人の音楽家が呼応する中で、時として思いもよらないものが生まれてくる。邪宗門もそうした2人のやり取りをきっかけに生まれたものだ。佐藤の突拍子もない思いつきのことを、平野はこんな風に表現する。
「佐藤さんは触媒みたいなものかな。何かぽんと投げかけてきて、それがぽちゃんと落ちる。僕はそれに勝手に反応していく中で、自分の中の必然を見出していくんですね。だから自分の音楽世界が汚されたとか、侵入されたという感覚は一切ない。その関係性というのは、多分なかなかないことだろうと思うんです」
平野が「なかなかない」という作曲家と演奏家のこの関係について、佐藤も同じような感覚を持っている。
「僕が何かを出すときは、思いつきですごくプリミティブな状態で出すんです。曲の内容や音に関しては一切触れない。僕の最初の意見は四角いんだけど、平野君の中で畑が耕されて丸くなっていくというのかな。僕が何か養分を入れると、何日か経って肥料になってぽんと出てくる、そういう面白さがある。
邪宗門は2人がいなければ、絶対にこの形態にはならなかった。最初は僕の投げかけだけど、邪宗門という題材と、どの詩を選んでどういう順番でやるという構想は、もちろん平野君のアイデアだし。僕はこういう楽器編成を考えているんだけどどうだろうとか、お互いのアイデアを照らしあわせたところで彼がまた考えて。結局それは、僕は実際に作曲していないけど、ちょっと入っているわけじゃないですか。作曲家と演奏家とのこういう作業というのは、昔はあったかもしれないですけど、今は多分もう皆無じゃないですかね。まあ僕らみたいなやり方も、あっていいんじゃないのかな」
佐藤一紀は、京都市立芸術大学のヴァイオリン専攻を1994年に卒業。作曲専攻の同級生との交流や現代音楽に詳しい先生の存在など、在学中は平野と出会う以前から、現代音楽と積極的に関わったり考えたりできる環境があった。大学卒業後はパリに渡って現代音楽の研鑽を積み、再び京都に戻って京都市立芸術大学の大学院を修了している。
2005年、指揮者の佐渡裕が芸術監督を務める、兵庫県立芸術文化センター管弦楽団に創設メンバーとして参加。同楽団を退団後は、長岡京室内アンサンブル、いずみシンフォニエッタ大阪のメンバーとして活動するほか、オーケストラや室内楽の演奏などで全国各地を飛び回っている。
モノオペラ「邪宗門」を上演するにあたり、管弦楽のメンバーの人選と出演交渉は全て佐藤が行なった。邪宗門の初演が大きな反響を得たのは、作曲家の自主公演としては異例ともいえるほどの豪華な演奏者が参加したことも、おそらく無関係ではない。そしてそれは、作曲家と演奏家との共同プロジェクトだったからこそ実現したことだった。コンサートマスターを務めたヤンネ舘野をはじめ、佐藤がこれまでに出会い共演してきた優れた演奏家たちが、彼の呼びかけに応じて関西のみならず東京からも集まってきた。
費用のことを考慮するならば、関西在住の演奏家だけを集めたほうがよかったに違いない。そして佐藤ほどのキャリアであれば、関西の演奏家に声をかけただけでも、相当なレベルのオーケストラになったはずだ。しかし彼はそうしなかった。音楽に妥協しない人選からは、邪宗門に懸ける佐藤の決意が伝わってくる。
「僕たち演奏家は普段、依頼されて弾くという仕事が多いんですね。自分たちが発想したものが本当にオペラになって生まれるという現場にいられるのは、一生でそんなに体験できることじゃない。だから作曲家を通じてこういう夢みたいな話が実現されると、じゃあ僕は演奏家の立場でできることを最大限にやろうと思うわけです」
平野のこれまでの作曲活動のひとつの集大成といえる邪宗門は、同時に佐藤にとっても、彼がこれまでに築いてきた人脈と、音楽経験の集大成の場であった。
「再演・邪宗門」 06-葛藤と共鳴1
ピアニストの堤聡子は、音色工房のメンバーの中で最も早くから平野作品を演奏してきた。平野にとって彼女は重要な音楽的パートナーである。そんな2人は、音楽的なパートナーであるだけでなく、プライベートにおけるパートナーでもある。要するに夫婦というわけなのだが、この2人には軽々しく"夫婦"という言葉を使いにくい雰囲気がある。必要がないのであれば、2人の関係を自ら他人に明かすことはしないし、それどころか、夫婦であることを悟られないようにしているのではと思えることすらある。
音楽と真摯に向き合う芸術家にとっては、ときに"夫婦"という言葉が持つイメージが邪魔になる。実際、2人の間には相当な緊張関係があるのだという。だから平野は、甘いイメージを持たれてしまう状況がもどかしい。
「夫婦だから、どうしても仲良しで甘くやっているような誤解を常に呼ぶと思うんですよね。それはまあしょうがない面もあるし、いちいち説明する必要はないと思うんだけど、実際はものすごくシビアにやっているんです」
堤もまた、同じようなもどかしさを感じている。彼女は自分の演奏活動が、夫婦というフィルターを通して理解されることを警戒していた。
「すごく善意の誤解で、『ご主人の作品を素晴らしく演奏されるのは、きっとパートナーだからですね』とか、そういう風に言われることに対する憤りが、平野は平野であったみたいだし、私は私であって。嫁だから弾けるんじゃないんだけどなあ、そんな感じに見えるのかなって悩んだりしていました。真剣にやっていることをわかってほしかった。周りに馴れ合いでやっているように見られたくなかったんです」
堤は兵庫県神戸市で育った。神戸は人口150万人を超える日本有数の大都市である。比較のために記しておくと、平野が生まれ育った京都府宮津市は人口2万人前後。2人の育ってきた環境は全く違う。そして堤は音色工房のメンバーの中で、唯一のクリスチャンである。自身の音楽的ルーツを探るべく日本の民間伝承音楽を訪ね歩いてきた平野とは、音楽的な土台も大きく異なる。
「長い間一番近くにずっといたんだけれど、一緒に何かをやることについては、すごく慎重でした」と堤はいう。
「ちょっと書いてよ、ちょっと弾いてよ、みたいな気軽な感じでは一切ない。2人が育ってきた環境とか世界観とかがあまりに違うから、何をやるにも簡単じゃないんです。それだけに時間がかかるし、そこに一番葛藤が現れることになるから」
一方で平野は、お互いの世界観の違いを認めつつも、音楽家としては安易に堤の世界に歩み寄ることをせず、自らの世界を提示し続けた。
「そもそも、僕が邪宗門の世界に目覚めるひとつのきっかけになっているのは、堤さんから知ったキリスト教文化です。日本におけるキリスト教文化は、僕にとっていずれ正面から向き合うべき重要なものとして示されていた。それにもかかわらず、今まで堤さんと協同していく中では、表面上は圧倒的に、神話的な主題や仏教的な世界が強かった。僕の中でそれらは、堤さんの背負った世界と根底では確実に繋がっているものと実感しているんだけども、彼女にとっては、どうも唐突に投げかけられた無茶振りとして受け止められたようなんですね」
2人が音楽家として向かい合うとき、それは甘い共同作業などには決してならない。むしろより激しい摩擦と、それを乗り越えるためのエネルギーが必要になることだった。
「再演・邪宗門」 07-葛藤と共鳴2
堤聡子は平野と同じ年に京都市立芸術大学に入り、ピアノ専攻で学んだ。卒業後の数年間は、表立った演奏活動はほとんど行なっていない。芸術家として更に進化し飛躍を遂げるために演奏活動を封印し、個人で先生に習いながら修行を積むというストイックな道を選択する。そして2003年、満を持してエントリーした第7回松方ホール音楽賞で、大賞を受賞した。それを機に演奏活動を解禁、2005年には受賞記念リサイタルを行った。
大切な節目となる受賞記念リサイタルのために、堤は平野に新作を委嘱した。学生時代を含めて、それまで平野作品を何度か演奏していたが、自分のために曲を書いてもらうのは初めてだった。堤には、今の自分は平野との葛藤の末にここにいるという実感があった。だから、ピアニストとして自分が何を表明して舞台に立てばいいのかと考えたとき、平野の作品は必ず入れなければならないと思っていた。
そこには、夫婦だからお願いしたという手軽な気持ちは全くない。好きな曲だからとか、得意だからと選んだものでもない。このとき堤が芸術家として踏み出すことができる道は、そこしかなかった。
そんな堤の依頼に応えた平野の作品が、平家物語を題材にした「水底の星」である。物語の終盤に置かれた「六道之沙汰」で、壇ノ浦の戦いで敗北を悟った平氏一門が海に身を投げる中、平清盛の娘である平徳子(建礼門院徳子)は心ならずも生き残る。そして西国から京へと運ばれる途中、明石の浦で見た夢の中で水底に墮ちた平家一門と再会し、自らの過去を仏教の「六道」になぞらえて語るという場面だ。
平野に初めて曲を書いてくださいとお願いしたときに、そんな題材の作品が出てきたことが、堤にはすぐには信じられなかった。
「それまでにも、もし一緒に仕事をやるなら例えばこんな題材で、という雑談くらいはしたことがあったから、自分にも腑に落ちる内容になるだろうという、今にして思えば淡い幻想がありました。それが、クリスチャンの私に"六道廻り"みたいなものをぶつけてくる。まあショックでしたよね」
もちろん平野は、堤の存在を無視して自分の趣味で曲を書いたわけではない。平清盛とゆかりの深い、神戸という土地で育った堤だからこそという思いがあったし、音楽家としての堤のこれまでの歩みを、建礼門院徳子の姿と深いところで重ね合わせてもいた。そして何より、堤聡子の可能性を信じていたからこそ、作ることができた作品だった。
「僕は堤さんというピアニストは、すごく面白いと思っているんです。ストイックというか、とっても清潔な人だと思う。高潔というか。そういう部分が真ん中にあるんだけど、自分が触れたことがない別な世界を前にした時に、結局はそこに踏み出さざるをえなくなるタイプの人だと思っているんです。
レパートリーの変遷を見ていても、自分はロマン派の音楽が全くわからないと言っていたはずなのに、そのロマン派の一番ど真ん中のシューマンみたいな人をすごく取り上げるんですよ。それで素晴らしい演奏になるんです。そのあり方が僕はすごく興味深いですね」
「水底の星」は、受賞記念リサイタルに先駆けてまずモスクワの音楽祭で初演されることになり、その楽曲と凄みのある演奏は現地で大いに評判になった。
これまで堤は、常に内蔵がよじれそうな違和感と戦いながら、平野作品と向き合ってきた。結局のところ、堤は平野の意図を汲み取ることができたのだろうか。
「私の場合、オロチだとか平家物語だとか、私とは何の縁も感じない世界だと思えるようなことを、なぜかずっとやるはめになって、書いた本人は、私だからそうなんだって言うんだけど、それがいまいちわからなかった。
でも、最初の委嘱作品がなぜ平家物語でなければだめだったのか、上手く言葉では説明できないけれど、きっとそれは必然だったんだろうと、今になって時間差で実感するんです。何年か経って振り返ったときに、こういう意味があったのかなと。
それを実感できるようになったのは、邪宗門の存在が大きいと思います。邪宗門はまさに、土着のものと外来のものとの葛藤じゃないですか。それは私と平野がやりあってきた内容そのものに感じることがあるんですよね。そのベースには、我々のすごく個人的な葛藤とか、表には現れないものがあることを私は感じるから。邪宗門という素材で大作をやらなきゃいけないと、彼は何かで思ったんだろうし、私は多分、それが出てきたことが嬉しかったんです」
モノオペラ「邪宗門」は堤にとって、平野から生まれた世界を素直に受け入れることができる、初めての体験だった。そしてそれは、過去の平野の投げかけを読み解くための入口でもあった。それまで何度も衝突をくり返してきた2人の間に、ようやく共有できる世界がはっきりと現れた。
平野が邪宗門を題材にした作品を書くと知ったとき、堤はこうつぶやいた。
「やっときたか」
それは何年もの歳月と、万感の思いが詰まった「やっと」だった。
「再演・邪宗門」 08-幸せな出会い
音色工房のメンバーであり、モノオペラ「邪宗門」の唯一の登場人物であるソプラノ歌手、吉川真澄と平野との出会いは偶然のものだった。それは、堤が松方ホール音楽賞で大賞を受賞した2003年にさかのぼる。この年の松方ホール音楽賞は3人が大賞を受賞したが、その受賞者のひとりが吉川だった。堤も平野も、吉川のことはこの音楽賞で出会うまで知らなかった。受賞記念コンサートの客席で、平野は初めて吉川の歌声を聴いた。
「記念演奏ガラコンサートのときに、吉川さんがヴォルフの歌曲を歌っておられて、それがものすごくよかったんです。単によいと思ったというのではなくて、この人に日本語の歌を歌って欲しいと、心から思ったんですね。素晴らしい歌手はたくさん知っているけれど、そこまで強く思った歌い手は初めてでした」
コンサート終了後、平野は堤と一緒にレセプションに参加し、そこで吉川と会話を交わした。実は吉川はこのときのことをあまり覚えていないというのだが、それはともかく、平野は吉川と直接話をすることができたのだった。ただし彼は、ひとつだけ重大なミスを犯した。
「連絡先を聞けばよかった!お別れしてからものすごく後悔したんです」
吉川真澄は大阪の岸和田市で生まれ育った。相愛大学音楽学部を卒業した後、東京に行き桐朋学園大学の研究科に進む。相愛ではイタリアオペラを、桐朋ではドイツ歌曲を中心に勉強した。現在も東京を拠点として音楽活動を行なっている。相愛時代は現代作品を歌う機会はなかったが、桐朋の研究科に在籍しているとき、ギター2本とソプラノのために書かれた作品の新作初演をしたのをきっかけにして、他の作曲家や演奏家から次々と新曲の歌唱依頼の声がかかるようになった。
平野と吉川が次に出会うのは、松方ホール音楽賞の受賞式から4年後、サントリーホールで2夜に渡って開催された「日本の作曲家2008」というコンサートだ。第一夜に弦楽四重奏曲を出品することになっていた平野は、第二夜の出演予定者の中に吉川の名前を見つけた。「あ、この人だ!」と思った。
「絶対にこのチャンスに会わないといけないと思って、吉川さんのホームページを見つけて、とりあえずメールを送ったんです。その時点ではまだ歌曲は書いてないし、予定もなかったけれど、絶対にいつかあなたと一緒にやるんだって」
メールを送ったのは、コンサートの3ヶ月前のこと。結局、当日までに返事が返ってくることはなかった。平野は、きっと怪しい人だと思われたのだろうなと思った。しかしそのメールはちゃんと吉川のもとに届き、ちゃんと読まれていた。しかも興味を持って。
「コンサートに行きますというメールをもらったのは、2007年11月でした。今は声楽の作品はないんだけど、いつか日本語の歌詞のものを書きたいと思っているから、何か機会があったら......という内容でした。松方の受賞コンサートの時はドイツ語の曲を歌っていたのに、そのドイツ語の歌を聴いて、この人の日本語を聴きたいと思ったと書いてくれていて、面白い聴き方をされたんだなと思いました。歌曲を書きたいという作曲家は少なくて、歌の作品はなかなか取り組んでもらえないんです。日本語を書きたいっておっしゃっているのが、すごく興味があるなと思いました」
そしてコンサート当日。平野が最初に吉川の歌を聴いてから4年が経っている。万が一、今の吉川の歌が好きになれなかったら、会いに行くのはやめておこう、と密かに思っていた。
「だけど、やっぱり本当によかったんですよ。これはもう間違いないと思って楽屋に行ったんです。別に予定があるわけじゃないんだけど、いつかやりますからって」
そこで平野はようやく連絡先を交換することができ、それから吉川が出演するコンサートを何度か聴きに行くようになった。
サントリーホールでのコンサートからさらに1年半が経ち、いよいよ邪宗門を題材にしたモノオペラを作るという構想が具体化したとき、平野の頭に真っ先に浮かんだのは、吉川真澄の名前だった。
「自分の中では邪宗門の世界を表現できるのは、やっぱり吉川さんしかいないと思っていました。童謡風の『空に眞赤な』という曲があるんですけど、それは詩を見たほとんどその瞬間に、すぐにできた曲なんです。その時のイメージが、完全に吉川さんのイメージになっていたんです」
そこで平野は佐藤とともに、大阪のなんばで吉川と会うことにした。全部で33曲からなる邪宗門は、この時点ではまだほとんど作られていない。しかしモノオペラという形式であることや楽器編成、全体の構成などの枠組みはほぼ固まっていた。吉川は2人から邪宗門についての説明を受けた。
「例えば童女みたいな、幼い子供が歌っている感じの曲もあるかもしれないし、歌うだけじゃなくて、シャーマンのような呪術的なところもあるかもしれないと言っていたような気がします。15の楽器が常に演奏しているのではなくて、曲によって色んな組み合わせのアンサンブルがあるという話を聞いて、それは面白いなと思いました。その時点ではまだ曲は全くできていないのに、面白いですよね。もう頭のどこかにはあったんでしょうね」
吉川はこの時すでに、多くの現代作品の演奏経験があった。現代音楽に対して一種のアレルギー反応を示す演奏家もいる中で、平野が惚れた歌声の持ち主が、現代作品と積極的に関わっていたことは、幸運だったといえるだろう。
「管弦楽が15人と聞いた時点で、割と規模が大きい作品だろうなとは思いましたけど......こんなに大変なことになるとは思っていませんでした」
そういって吉川はふふ、と楽しげに笑う。高度なテクニックと幅広い音域を持つ、2時間の舞台を一人で歌い切ることは、並大抵の大変さではないはずだ。しかし彼女はそれを軽く笑い飛ばすことができる度胸と、明るいキャラクターを持っていた。これもまた、音色工房と邪宗門という作品にとって幸運なことだった。
「再演・邪宗門」 09-不思議な縁
芸術家集団「音色工房」には、4人の音楽家とともに、美術のジャンルから映像作家の前田剛志が参加している。モノオペラ「邪宗門」を初演する際、映像を作ってくれる人を探していたとき、舞台監督から「いい人がいますよ」と紹介してもらったのが前田だった。それが最初のきっかけである。平野も佐藤も、それまでに前田とは接点がなかった。
と、会うまではそう思っていた。
前田剛志は京都市立芸術大学の美術学部で学び、大学院の美術研究科を修了した。在学中にはパリ国立高等美術学部にも留学している。京都芸大では学年でいうと平野の3つ下にあたる。
京都芸大は音楽と美術の2つの学部からなる大学だ。小さな大学ではあるが、音楽と美術の学生同士の交流は、個人レベルのものは別として、活発に行われているというわけではない。つまり、大学にいた時期がかぶっていたからという理由だけでは、前田が平野と出会う直接のきっかけにはならない。
前田がほかの美術の学生と違っていたのは、クラシック音楽が大好きだということだった。彼は学内で行なわれる音楽学部の学生のコンサートに、頻繁に足を運んでいた。そしてコンサートを聴いていく中で、ある作曲科の学生の作品が気に入り、彼の作品が演奏されるコンサートを追いかけるようになった。それが平野一郎だった。
「学生時代に作曲科の学生の作品をたくさん聴いた中で、平野さんだけが目に留まっていたんです。当時書かれていた作品は今と違って、いわゆる"現代音楽"の響きをもっと持っていたと思いますが、それにしても完成度がすごく高かった。特に印象に残っているのは、立体的な音響作り。僕は当時、有名な現代音楽を片っ端から聴いていたので、大体の曲は頭の中に入っていたんです。そういう作品の質と比べても聴き劣りしないと感じていました」
現代音楽が好きだった前田にとって平野一郎は、学生時代に何度も作品を聴いていた憧れの存在だった。
クラシック音楽に対する前田の熱意は、コンサートを聴きに行くだけで満足できるようなレベルではなかった。
「僕は美術学部にいたんですけど、本当に音楽が好きだったんで、学生の時に佐藤さんの弟さん(佐藤禎。現在、京都市交響楽団チェロ奏者)にチェロを習っていたんです。僕も佐藤さん兄弟も、芸大の近くの同じマンションに住んでいたので、一紀さんの部屋にも遊びに行って、ヴァイオリンを弾いてもらったり、CDを聴かせてもらったりしたことがありました」
前田は美術学部でありながら、自分の趣味としてチェロを習っていたおかげで、学生時代に佐藤一紀とも交流があったのだ。もっとも当時の佐藤の認識は、「弟にチェロを習っている、美術学部の前田クン」という程度だったし、前田が美術学部で何を専攻していたのか、卒業してからどんな活動をしていたのかもよく知らなかった。邪宗門の打ち合わせで会うまで、あの「前田クン」が映像作家の前田剛志と結び付かなかったのは無理もない。
舞台監督からたまたま紹介されたはずの前田が、学生時代から平野のことも佐藤のこともよく知っていたというだけで驚きなのだが、この話にはまだ続きがある。
「しかもですね、僕がチェロの発表会に出たときに、伴奏をしてくださっていたのが堤さんなんです!誰も意図してないのに、そういう繋がりになっていたんです」
前田にチェロを教えていた佐藤禎は、平野や堤とは京都芸大の同級生だ。その繋がりで堤は発表会での伴奏ピアニストを引き受けていたのだった。
平野も佐藤も打ち合わせの前まで、これから会おうとしている前田がそんな繋がりのある人物だとは想像もしていない。ただ全てを知っている前田だけが、ひとり興奮していた。
「最初に話を聞いたときは、『新作オペラがあるから、その映像を担当しないか』ということだけで、作曲家の名前も知らない状態でした。打ち合わせの直前になって、作曲家は平野一郎さんだとわかり、当然ぜひともやりたいと思いました。さらに一紀さんも顔合わせに来られると知って、わぁすごい巡り合わせだな!と思いました」
もしも万が一、顔合わせをしてみたものの、やっぱり採用しないと言われてしまったら、ショックは相当なものになるだろう。前田は気合を入れて打ち合わせに臨んだ。
これまでに前田が行なってきた芸術活動のひとつに、メディアアートと呼ばれるジャンルがある。メディアアートとは、コンピューターや映像技術の発達とともに生み出された、新しい芸術表現だ。音楽やダンスなどとのコラボレーションも活発に行われているジャンルにいたので、音楽と映像が融合したモノオペラ「邪宗門」のコンセプトは、すぐに想像ができた。
前田は打ち合わせにノートパソコンを持っていき、自分が作った映像を見せた。佐藤はその映像に目を見張った。それはまさに平野と佐藤が望んでいた世界だった。
「すごい映像を作ってきたから、びっくりしちゃって。話しはじめてすぐに、もう平野君と2人で意気投合していた。この人だったら、平野君の世界観を目に見える形で作ってくれるんじゃないかと思いましたね」
こうして前田は不思議な縁に引き寄せられ、最初からそう決まっていたかのように自然に、邪宗門に参加することになった。
「再演・邪宗門」 10-音楽家と美術家の理想的な協同
モノオペラ「邪宗門」の映像に関する打ち合わせは、ほとんど平野と前田の2人で行なわれた。平野は最初の打ち合わせで、前田から「テキストと映像と音楽の関係は、どんな風に考えておられますか?」という質問を受けた。
「まさにそれを聞いて欲しかったと思いました。映像が音楽を説明したり、詩の説明として映像があったり、詩をなぞって音楽があったりするのではなくて、全部が照らしあい触発しあう関係であって、一義的な意味を届けることが目的じゃないんだという話をしました」
質問を投げかけた前田もまた、同じことを考えていた。
「つまり舞台のセットとして、例えばここは宮殿のシーンだから宮殿の映像を出してください、ここは青空と草原のシーンなのでそれを映して下さい、そういうものではなくて、もっと感覚的に入り込んでいくようなものですね。詩にはもちろん具体的な言葉が書かれているけど、その情景に引きずられすぎると、映像は単にそのテキストを視覚化する役目しか果たせないんです。そうではなくて、その詩の中でどんな要素をピックアップして映像化していくかっていうことが重要なんです」
前田が最初に北原白秋の邪宗門のテキストを受け取ったとき、どこに注目して読んでほしいといった話はなかったという。ただ、読んでくださいとだけ言われた。前田はそれを自分の感性で読み込んでいった。
「邪宗門のひとつの重要な要素として、色があります。代表的な色として、赤と青の2つの色が埋め込まれていて、それによってある程度、全体の色調の変化のプランが立てられました。もうひとつ、詩の中で非常に気になったのは、靄(もや)とか霧とか煙とか、空気に漂っているものの存在が随所に出てくる。それらが、邪宗門という世界の空気感を非常に象徴しているという風に思えたんです。
印象派風の描写の典型と言えばそうなんですが、それだけでは説明出来ない気がするんです。つまり邪宗門は、キリスト教とか南蛮文化という外国からやってきた宗教や文化を描きながら、同時にこのような空気感を示す言葉によって、日本の風土を描いているのではないか、その結果として、異質なものが混じり合った複雑な世界が出来上がっているのではないかと思ったんです」
その独特の空気感を視覚化するために、前田は特殊な形状のスクリーンを考案した。中央に大きな1枚のスクリーン、その左右には障子の格子のように細分された16枚ずつのスクリーンが配置されている。
「障子の向こう側とか窓ガラス越しに見る風景とか、ステンドグラスの奥から差し込む光であるとか、何かを通して対象を見つめるという、"間にある存在"を描きたかったんですね。普通に白い壁とか白い幕に映像を映しても、それは映像という向こう側の世界と、それを見るこちら側の人という二元的な世界しか成立しない。だけど映像と観客の間に挟まっているものの存在を、格子状のスクリーンで物理的に示すことによって、見ている対象との間を取り持つ空気感が描けるんじゃないかと思ったんです。
さらにそこに煙のような靄のような、空気を漂っているものが映像としても入り込んでくる。そうすることで、何重にも重なったレイヤーを眺めているような雰囲気というのが出ているかなと思います」
平野は最初にできあがった映像を見たときに、邪宗門の詩から前田がすくい上げるポイントが、自分と似ていることに驚いた。映像を作り始めた段階では、前田はまだ平野の曲を聴いていない。お互いのイメージは、北原白秋の詩を通じて共有されていた。その映像は、音楽家と美術家の理想的な協同関係を示すものだった。
「再演・邪宗門」 11-映像作家ビル・ヴィオラの衝撃
モノオペラ「邪宗門」に映像を入れるというアイデアは、2008年に来日したパリ国立オペラ(パリ・オペラ座)の「トリスタンとイゾルデ」がひとつの動機となっている。この公演はフランスを代表するオペラ団体の初来日というニュースと共に、映像を伴った新しい演出が話題になった。前田は映像作家の立場で、この来日公演に注目していた。
「トリスタンの映像を、ビル・ヴィオラという映像作家が担当したんです。音楽界ではパリ・オペラ座で初めて知られた作家かもしれませんが、現代美術においては既にすごく評価されている人です。『ミレニアムの5天使』という作品は、人が水の中に飛び込んで大量の水泡が出ているのを逆再生して、ぶわっと水面に人が浮かび上がってくるのを超スローで見せていくんです。他にも人が炎に包まれていく映像とか、群衆に大量の水が激しくかぶっていく映像とかを、すごいスローモーションでやる。水とか火とか、エレメンタルな質感を高精細にとらえて、そこにある種の神性を感じさせる映像を作っているんです。
トリスタンの映像もこのような手法を使って作られたんです。僕はチケットが取れなくて公演には行けなかったんですけど、平野さん、堤さん、一紀さんが見られて非常に衝撃を受けたというんですね。オペラで映像を使うという可能性をすごく持たれたんです。これを見ていなかったら、映像の話はおそらくなかったんじゃないかな」
この公演を見に行った佐藤が最も衝撃を受けたのは、第2幕でトリスタンとイゾルデが逢引きをするシーンだ。たいまつの火が消えるのを合図に、久しぶりに出会った2人の愛の場面が始まる。そのシーンを語る佐藤の口調は熱い。
「びっくりしたのは、リアルタイムで進行しない部分があるんですよ。クライマックスになったあと、もうオーケストラが収まっているのに、映像で火は燃え続けているんです。その後ぐらいに水がぶわっと出てきて、火がばっと消えていく。もうね、完璧にずれているんですよ。これ、かっこいい!と思って。音楽は静まっているんだけど、目で見ている映像はまだ燃え盛っている。このギャップが空間の歪みみたいなものを作っていて。そうすると自分の中で、何を聞いているのか見ているのか......これ何だ?!と思ったんです。
例えば今、CGの映画とかは、効果音に対して映像が絶対ずれないじゃないですか。1秒も0.1秒も。ずれちゃだめだって思うじゃないですか。でもそうじゃなくて、完全にずれているんだけど、テンポの違うものが同時に進行することで生まれる、音と映像との3D効果みたいなのにもう圧倒されて、やられちゃったんですよ。完全に打ちのめされて。これはすごいって。同じ音楽を聴いているのに全然違う空気にさせられる、映像の力っていうのを思い知らされた。そこまでいいと思ってなかったのに」
佐藤のこの興奮は、もちろん前田にも伝えられた。
「最初の顔合わせのときに言われました。音楽があってそれに映像が同期することは普通に考えられるんだけど、そうではなくて、ずれてさえもなお、お互いが響きあう、そういう映像効果が欲しいんだと。映像というのは時間軸を持っている。音楽も時間軸を持っている。それらが単にシンクロするだけじゃなくて、ずれたりするときにも絶大な効果を発揮する。非常に複雑に絡めるんですね。映像と音楽と両方の時間軸が呼応したり反発したりしながら、共感覚のようなものが喚起される、そういう感じが得られたら一番ですね」
モノオペラ「邪宗門」はオペラという形式の音楽作品であるが、一方で視点を変えると、北原白秋の詩に基づいた、生演奏を伴った映像作品であるとも言える。それはパリ国立オペラの「トリスタンとイゾルデ」が、ワーグナーのオペラとして評価されているだけではなく、美術の分野では"ビル・ヴィオラの映像作品"として認知されているのと同じことだ。
共感覚とは、あるひとつの刺激に対して、本来の感覚だけでなく、別の異なる感覚も同時に生じさせる現象を指す。音楽と映像が同じ濃度で混ざり合ったとき、音でも映像でもない、別の新しい感覚が生まれるかもしれない。それが前田の狙いだった。その新しい感覚がどんなものなのかは、邪宗門の舞台を観た人だけが知っている。
「再演・邪宗門」 12-平野作品の世界
音色工房のメンバーの中で、吉川は他の4人とは少し違った立ち位置にいる。4人は関西を拠点にしているのに対して、吉川だけが東京で活動している。そして4人は、モノオペラ「邪宗門」の上演よりも前から平野作品に接していたのに対して、吉川は平野一郎という作曲家についての予備知識はほとんどなかった。彼女は平野から送られてきたこれまでの作品の音源を聴き、自分の耳だけを頼りに平野の世界を探っていった。
「東京で今まで出会った他の作曲家とは、全く違った印象を受けましたね。新しさや面白さだけを追求しているわけでなくて、すごく厳しく、こんなに真面目に向き合っている人が関西にいるんだなと思いました。古い手法で書いてある曲は、つまらなく感じてしまうこともあるんですけど、平野君の曲は単なる調性音楽じゃないから、そういうことが全然ない。それどころか、こんなに引き込まれるのはなぜだろうって。
楽器や声の特性を生かして最大限ギリギリのところまで書いてあるけれども、技巧的だけで終わらせていなくて、精神が感じられるのはすごいと思いました。何か普遍的な、確固たる自分の魂みたいなものが伝わる作曲家だと思います。
それに、送られてきた音源の演奏がまたすごい。どれも奏者が完全に作品に引き込まれて演奏しているのが伝わってくるんです。本当にすごい作品のパワーを感じましたね」
平野作品が演奏されるときの演奏者の熱気は、吉川だけが特別に感じたことではない。これまで多くの平野作品に参加している堤も、それを肌で感じていた。
「平野作品をやるときはそうなんですけど、演奏家がとんでもないテンションで取り組むのが感動を呼ぶらしいんです。バロックザールでの個展(「作曲家 平野一郎の世界 ~神話・伝説・祭礼......音の原風景を巡る旅~」)のときは、『作曲家の新作を演奏家がこれほど真剣に演奏するコンサートというのは、あまり知らない』と言われました。邪宗門のときも、尋常じゃない緊張感で始まったのが客席にビリビリ伝わったみたいです」
平野は曲を作るとき、自分が依代(よりしろ)になるイメージがあるという。依代とは、神霊が現れるときに宿ると考えられているもののことだ。
「自分ではエネルギーという言葉を使うんですけど、それが色んな方向から集まって、放たれて、受け止められていく。いかにそれを邪魔しないで、削がないで放つか。だから場合によっては、平野一郎という個人の存在が邪魔になることも多いんです。僕は多分、そのエネルギーを集めるために色んな場所に行ったりしているんです」
集まったエネルギーが平野に宿り、それが削がれることなくそのまま放たれたとき、演奏家がその全てを受け止め、放つためには相当のパワーが必要になるはずだ。それが、平野作品が演奏されるときの熱気の源であるという説明は、あながち的外れではないだろう。
面白いのは、佐藤の平野作品評だ。予想外の答えが返ってきた。
「平野君の曲を好きかと言われたら、別に好きじゃないですよ。だって気持ち悪いもん。気持ち悪いというのは、汚いという意味じゃなくて、植物みたいに血液の中にぐわっと入ってくる感じがするんですよ。そういうのが本当は僕には耐えられない。それぐらい生命力があるんじゃないかな。
植物の中には寄生虫とか色んな虫とかがいて、ひとつの花が咲くのにも、土の中ですごく色々あるわけじゃないですか。なんかそんな感じ。ぱっと見てもそれは感じないんだけど、それを見てしまったら平野君の曲はすごく気持ち悪い」
佐藤は音色工房の共同主宰者であり、モノオペラ「邪宗門」の音楽監督だ。彼は当然、平野作品を手放しで賞賛するだろうという予想は、見事に裏切られた。音色工房という集団、一筋縄では読み解けない。
しかし佐藤の感じた気持ち悪さは、表面からは見えないものが見えているからこその感触だ。きれいな花を見たとき、普通はきれいだとしか思わないだろう。やはり佐藤が平野作品の最大の理解者のひとりであることに間違いはない。
「今は何でも見せようとするじゃないですか。よりリアルに、どんどん見せようとするけど、平野君の曲はすごく隠されている。僕は結構そういうのに共感しているんです。外側から見たら何かわからないようになっている。そういう神秘の世界をあえて作るべきだと思う。そうじゃないと薄っぺらくなっちゃう。
バッハだって、絶対に誰も読み解けないような数字の計算があったりするよね。聴いている人は全然それに気付かないで、ただ美しいなあと思って聴くんだけど、それが何を表しているのか、正面からは見えなくなっている。結局、わかりやすくすると淘汰されちゃうんですよ。数年で命がなくなってしまう作品が多い中で、彼の曲はすごく面白いなあと思っているんです」
そして佐藤はこうつけ加えた。
「僕は好き嫌いでは動かない。好きか嫌いかじゃなくて、凄いか凄くないかだと思うんですよ。僕はそっちに価値があるような気がしているんです。平野君の曲は気持ち悪いんだけど、一緒にやりたいと思うんだよね。それは、この作曲家は自分だけの世界を持っているんじゃないかと感じているから」
佐藤流の言い方ではあるが、おそらく音色工房の他のメンバーも異存はないだろう。
「再演・邪宗門」 13-邪宗門の読み方
ここ過ぎて曲節(メロデア)の悩みのむれに、
ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、
ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。
(邪宗門「邪宗門扉銘」)
一般的な感覚で言うと、北原白秋の邪宗門は難解な詩集だ。もちろん作曲者の平野は、ひとつひとつの詩について自分の中で味わい尽くして消化している。14歳で初めてこの詩集に出会い、その魅惑的な世界に夢中になったという平野が、邪宗門についての思いや説明をこと細かに語るなら、それだけで1冊の本ができるだろう。そのひとつを聞くだけでも、平野の読み込みと思い入れの強さが伝わってくる。
「第1部の最後に『接吻(くちつけ)の時』という詩を選んだんですけど、その中に『二人がほかの霊(たましい)のありとあらゆるその呪咀(のろい)』という一節があるんです。この詩は時に、『経験してもいない恋愛を大袈裟にうたっていて、ちょっと気恥ずかしくなるような若気の至りの詩』といった読み方がされているみたいなんです。これはもちろん男女の恋愛の真実をうたっているんだけど、僕はその本質はとてつもなく深いと思っているんです。
接吻の一刹那に、とんでもないビジョンがうわっと溢れ出す。生まれる前かもしれないし、夢の中かもしれない、朝なのか夕方なのかわからない、月が昇って太陽が沈んで、野原に骸(むくろ)がゴロゴロしていて、自分への弔いの歌が聴こえてきて、獣が鳴いて汽車が通り過ぎて......。様々なビジョンが連鎖して、最後にハッとするように『われら知る赤き唇』で終わるんですね。一組の恋人の接吻のとき、実は2人以外の魂の"ありとあらゆるその呪い"によって、今この瞬間が作られているということを言っているんです。
これは例えばユングが言っていた、集合的無意識そのものなんじゃないだろうか。つまり人が動くということは、個人が動いているように思うんだけど、実はそうではない。無数の魂とか宇宙のエネルギーとか、そういうものが動かしているひとつの現われとして、表面に個人というものがあるだけで、その動きには全て集合的無意識が作用している。白秋は恋愛のみならず、万象をまさにそのようにとらえていて、その最も戦慄的な現れの瞬間を接吻という青春の一場面に封印しているんだと思う。白秋の詩にこもっている、この熱を嗅ぎ取らないことには、音楽は生まれてこないですよね......」
音色工房のメンバーもそれぞれに邪宗門を読んでいった。その中では堤の最初の感想が、一般的な人たちの気持ちに一番近いかもしれない。
「言葉が難しいので、私は辞書で調べるところから始めました。阿刺吉(あらき)って何だ?珍酡(ちんた)の酒って何だ?単語、単語がいちいち知らないとこから始まるので。最初に白秋の詩だけを渡されたときは、いくつかの詩には魅力を感じつつも、全体像がよくわからず、あまりのめりこまなかったですね。それを読んだだけで持続した世界や景色が広がるという風には、自分はなれなくて。だから平野の音楽を待とう、と思いました。
楽譜で出てきたら、その奥に何があるのかということも、少しずつ見えてくるようになったかな。今までの平野作品のモチーフがたくさん出てきているので、どうやら平野はこのテクストの裏にこういう世界を感じているらしい、というのがわかるんですよ。それを手がかりにしつつ、白秋の詩が持っている具体的な感触を自分なりにたぐり寄せようとしました。今は白秋の詩だけを読んでいても、音楽と一緒になっていて、半分歌っているような感じで読んでしまいますね」
一方、吉川は歌手ならではの感性でこの詩を読んだ。
「白秋は読まれることをすごく意識していた詩人だなと思いました。読まれたときのリズム、発せられる響きの連なりが本当に美しい。詩集は本で出版されていますけど、目で黙読されるだけじゃなくて、朗読されることを考えていたと思います。白秋自身、きっと大胆に朗読しながら書いていたんだろうな。だから音楽にはすごく向いているのかなと思いました」
モノオペラの演じ手である吉川は、邪宗門の中に出てくる様々なキャラクターにも思いを巡らせている。
「白秋は自分の言葉として書いているものもあれば、何かが乗り移ったように全然違うものになり切って書いているものもある。男と女で性別が変わってしまったりもするし、おじいちゃんになったり、おばあちゃんになったり、子供になったり。でもそれは一見違う人のようで、結局はひとりの人間のことなのかなと私は思っています。
ひとりの人間の中にも、色んな性格があるわけじゃないですか。自分から発したものが、単なる自分自身だけのものとは限らないですよね。自分が認識している人格以外にも、きっと無意識の自分が何人も居ると思うんです。似通ったキャラクターも出てくるけども、同じ人かというとそうでもなく、だからといって全然違う人でもなく。前世で繋がっている人たちかもしれないし、全然違う人なんだけど、同じ魂の人なのかもしれないし。でもそれは、人それぞれの解釈でもいいんじゃないかな。そういうところが表現できたらいいなと思っています」
前田も独自の感覚で、この詩を捉えていた。
「あの詩を読むということは、理解しようと思うとなかなかできない。割と気持ちがよかったのは、この詩で何を示したいのかということは考えずに、そこに浮かんでいる言葉の質感にひたすら身を委ねていく読み方。そういう読み方をすると快感が湧いてくるんです。
オペラと言われると、やっぱり全体の展開を考えてしまうと思うんですよ。でも、邪宗門はその流れを期待してしまうと、はぐらかされてしまう。全く繋がりがないかというと、そうではないですけれども、あくまでも詩なので、ドラマ性は少ないですよね。だから難しいことは考えずに、言葉の海の中に感覚を漂わせていくのは、案外正しい読み方かもしれません」
堤もその意見に同意している。それはモノオペラ「邪宗門」を楽しむための、ひとつのヒントになるのではないだろうか。
「どうしても日本語のオペラだと言うと、理解できると錯覚するじゃないですか。だから言葉を追ったりしはじめる。でもそうではなくて、まずはただ浴びてくれたらいいんだけどな」
「再演・邪宗門」 14-初めての響き
クラシック音楽の場合、現在ではよほどマイナーな作品でない限り、たいていの音源はCDやインターネットで手に入れることができるようになっている。だから音楽家が今までに演奏したことがない曲をやるときには、まずは参考としてその楽曲の音源を聴き、全体像を把握した上で作品に取り組むという人も多い。
しかし新作となるとそうはいかない。まだ誰も音にしたことがない真新しい楽譜を前にして、そこに書かれた音符をひとつひとつ確かめるように、丁寧に解凍していくところから音楽作りがはじまる。それは新作演奏の大変さではあるが、一方で古典的な名曲を演奏するときには味わえない、宝箱を開けるようなワクワクした高揚感がある。
まだ邪宗門の作曲が始まる前、吉川は平野から歌唱可能な音域を教えてほしいと言われた。吉川は自分が出せる限界よりも少し狭い、安全に歌える音域を伝え、前後の流れによっては、さらに上下の音も出せるかもしれないとつけ加えた。
そうして完成した邪宗門の独唱パートは、吉川が歌うことができる音域が、上から下まで目一杯使われていた。これまでに様々な現代の新作を歌ってきた経験豊富な吉川でさえ、「そんな書き方する?」と思わず茶化して言ってしまいたくなるぐらい、高度なテクニックが要求される楽譜になっていた。
「面白そうだけど、それよりも大変そう。一筋縄ではいかないな。でも......」
楽譜を開いてピアノで音を出してみると、大変そうだという不安以上に、音楽の美しさが吉川の心を捉えた。
「でも、『室内庭園』は衝撃的だったな。うわぁ、きれいだな!と思いました」
吉川はモノオペラを初演した翌年、平野に委嘱して「室内庭園」を含む最初の7曲を、声楽とピアノのための歌曲集「邪宗門・魔睡」に再編してもらっている。邪宗門はそれほどまでに、吉川を惹きつける魅力を持った音楽だった。
堤がこれまで平野作品を演奏するときには、その楽曲の背景にある様々な感情や情報が、事前に平野から伝わってくるのが常だった。しかし邪宗門に関しては、楽譜をもらうまでは、できるだけ情報を聞かないでおこうと決めていた。
「だから真っ白な状態で楽譜を見ました。邪宗門は今までの平野作品にはないような色合いでした。すごくキラキラした、西洋のものと東洋のものとが混じったような色彩。『魔睡』を弾き始めてすぐ、これはすごいと思ったのを覚えています」
「魔睡」は邪宗門の2曲目にあたる。第1曲目の「邪宗門扉銘」は、メロディーはほとんど奏でられない短いイントロダクションで、歌手は詩をゆっくりと朗読する。続く「魔睡」でオーケストラが動き始め、やはり朗読から始まる独唱パートは、途中でようやくメロディーを伴った歌になる。堤は初めて歌が登場するその部分を弾いたとき、鳥肌が立ったという。そしてまた「これはすごい」とうなった。
オペラや声楽作品の場合、オーケストラ・スコアとは別に、オーケストラをピアノ1台で演奏できるように編曲された、練習用のピアノ伴奏譜が用意されることになっている。オーケストラとの練習が始まるまでの期間、歌手はそのピアノ譜を使って練習をする。吉川と堤も、全体練習が始まるまではピアノで練習を進めていた。オーケストラではどんな響きがするのか、この時点では2人ともまだわからない。
それは指揮者の佐藤も同じだった。もちろん練習に備えて、指揮者用のスコアは読み込んでいた。頭の中でそれぞれの楽器の音色を鳴らし、サウンドのイメージも作ってきた。それでも実際にオーケストラから出てきた響きは、佐藤が想像していたよりも遥かに豊潤なものだった。
「邪宗門はすごい音だったね。ずっとピアノで練習をしていたから、オーケストラで最初に音を出したとき、こんなにカラフルになるんだって思った。新しい平野ワールド。
平野君はオペラを書ける人だなと思いました。気持ち悪さもあるけど、オペラになるとそれが有機的になる。邪宗門は編成が大きいけれどすごく緻密だし。邪宗門はこれまでの平野君の作品の中で、一番いい曲だと思いますね」
堤もまた、オーケストラのカラフルなサウンドを浴びた瞬間から、湧き上がってくる喜びを感じていた。
「その時点ではまだ全曲聴いていないから、トータルではわからない。だけど、とにかく最初で魅せられちゃったんです。だから絶対にすごい曲になるという感触はありました」
オーケストラのリハーサルは、本番前日までの5日間みっちりと行われた。佐藤はオーケストラのメンバーの様子を、こんな風に語っている。
「初演だから、みんな何も知らないとこから始めないといけない。しかもその曲がとんでもなく難しい。5日間、かなりきつかったと思うんですよね。みんな体力の限界だったんじゃないかと思うぐらい。
でもプレーヤーはすごく楽しかったみたいなんです。いい経験をさせてもらったと言ってくれた。音楽家として自分たちが何かを生み出しているという瞬間を、みんな欲しがっているんだなと思いました」
完成したばかりのモノオペラが、少しずつ音となり姿を現してくるにつれて、プレーヤーたちは大きな幸福感に包まれていった。宝箱に入っていたものは、とびきりの宝石だった。
「再演・邪宗門」 15-再演・邪宗門
2011年1月、モノオペラ「邪宗門」はお披露目となる2日間の公演を終えた。音色工房のメンバーはみな、それぞれに大きな手ごたえを感じていた。ぜひ再演してほしい。そんな熱い声が届いていた。ぜひ再演したい。その思いは初演が終わった直後から自然に湧き上がった。
東京に帰った吉川は、邪宗門の公演が記録されたDVDを持ち歩き、それを色々な人に渡して東京で再演できるチャンスを探った。
「やはり素晴らしい曲なので、もう一度演奏したい。例えばこれが古典的な名作オペラだったら、これからも演奏の機会はいくらでもあるだろうし、他の団体もできるだろうけれど、邪宗門は自分たちが上演しないと、また世に出ることはなかなか難しい。もっと色んな人に聴いてもらいたいという思いがあります」
しかし再演のチャンスを探す活動は、突然中断せざるを得なくなる。2011年3月11日、東日本大震災が発生した。
「そこでちょっと意気消沈して、新しい企画を東京で売り込む時期は、もうちょっと先になるのかなと漠然と考えました。でも今でも東京の人にも観てほしいと思っているんです。聴いた人はきっと熱狂しますよ。取り憑かれたもんなぁ......」
前田も吉川と同様、再演を熱望しているひとりだった。
「これだけの作品がたった2回の公演で終わってしまうのは、とても考えらないですね。2時間をこの密度で作っていて、これで終わりというのはあまりにももったいない。もっと多くの人に見てほしいし、もっと意見が欲しかったし、特に美術の分野の人にもっと見てほしい。もしも再演が無理ならDVDを作って広げていくとか、何かを継続していかないと」
前田は作り手として、質の高いオペラ作品を作ることができたという、大きな手ごたえを感じていた。
堤はピアニストとして、まだまだやり尽せていないという思いがあった。邪宗門のピアノパートは、オーケストラ全体を支える屋台骨としての役割を担っている。自分のパートに集中するだけではなく、誰よりも全体の動きを把握し、周囲に気を配らなければならなかった。
「もちろん自分なりに内容を理解したいと思ってやっていたけれど、それがトータルとしてどういう体験として提示されて伝わっているのか、自分で見ることができていない部分があります。それは何回もやって作り上げないといけないことだろうし、邪宗門はそれに足る作品だと思います。凄く多面的な作品だから、答えがひとつというわけではない。それが魅力だし、再演したいというエネルギーになっていると思います」
しかしだからといって、堤の口からすぐにでも再演をしたいとは言えなかった。モノオペラ「邪宗門」は管弦楽の人数を絞ったとはいえ、指揮者、歌手、15人のオーケストラが出演する舞台作品だ。映像を写すための特別なスクリーンや、舞台スタッフも必要になる。そして初演では、全国から選りすぐりのプレーヤーが集まった。芸術的な充実と引き換えに、音色工房を主宰する平野と佐藤は、経済的な負担を抱えることになった。堤はそんな2人の実情を間近で見ている。
「上演のために佐藤さんがどれだけ奔走したかも知っている。だから正直、再演したいというのは一紀さんに対して酷だと思った。自分からやろうとは言えなかったです。そういう心配を何もせずにできるなら、喜んでやりたいです。だけど、そう簡単じゃないですし」
堤が心配する通り、邪宗門の上演に情熱を注いできた佐藤は、再演には慎重だった。
「もちろん、やりたくないわけじゃない。最初は自分が言い出したというのもあったし、音色工房の旗揚げだったからしょうがなかった。だけどやっぱり、経済的にちゃんとできる当てがないと、続いていかないんですよね」
その気持ちは、再演への思いが一番強いはずの平野も同じだった。夢と現実との狭間で揺れていた。
「だけど吉川さんが、また絶対にやりたい、東京でも絶対やりたいと言って動き始めてくれていました。前田君も、これはもっともっとわかってもらう必要がある、自分としても消化しきれていない、それを消化するためには何度も上演しないといけないということを言ってくれました。他のプレーヤーも、ばったり出会ったときに、ぜひ再演を!と言ってくれたんですよ。それはすごく嬉しかった」
平野は周りの熱い思いに勇気づけられていった。そんな中、2012年に音色工房の活動を応援したいという有志によって「音色工房支援倶楽部」という後援組織ができ、資金面でサポートするための体制が作られていった。こうしてモノオペラ「邪宗門」は、初演から2年を経た2013年2月22日に、関西を代表するクラシック専用ホールである、大阪のいずみホールで再演することになった。
「ナルシスティックに聞こえるかもしれないけれど、邪宗門という作品の世界を、本当にみんなに知ってほしいんです。映像や音楽家を含めたこのムーブメントのようなものを。それは新しい流派が出てきたとか、そういう大げさなものではないんだけれど、でもとても大事なことを含んでいる気がするんですよ。
これはあらゆる意味で特異な作品で、自分にとっても謎みたいなところがあるんです。ばらばらになってしまっている現代アートと現代音楽とか、演奏家と作曲家とか、お客さんと専門家の関係とか、そういう全ての境界の上にある作品なんです。そこから繋がっていく変化が起こるような、そういう作品なのかなと思っています」
モノオペラ「邪宗門」は様々な思いを乗せて、再演に向けて動き出した。いずみホールでの再演が終われば、きっとじきに再々演の声が上がることだろう。そのうち東京での公演も行われるに違いない。そうして上演を繰り返していくうちに、いつか自分たちの手を離れて、色々な団体に取り上げられるようになるだろう。作品が独り立ちするそのときまで、5人の物語は続いていく。
<了>
2012年12月10日-2013年4月20日
オフィス・ミュージックメッセージHPに連載