(こわ)れた星空の向こう側

 

奪われた(YEAR)(EAR)

2020年夏、イリーナ・メジューエワ/ベートーヴェン・ピアノソナタ全曲録音を聴く

 

作曲家・平野一郎

 

 「一切の(わざわい)は何かしらよいものを伴ってくる」(ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)

 

 思いがけぬ僥倖であった。2020年のこの夏は、行われるはずだった東京オリンピックの喧騒を避けて一念発起、アテネ近郊の演劇の聖地を訪れようと、私は無い金を貯めていた。年明けからあれよあれよと見えない水に世界が浸され、ギリシャ行きは水の泡、惜しいと嘆く暇もなく、水底のアトリエで風変わりなオペラの作曲にこつこつ勤しむ日々が続く。そんな七月、一通のメールが届いた。「平野さん、ベートーヴェン・ピアノソナタ全集の前説をお願いできませんか?言うなればコロナ記念の録音です。お聴きになって気に入らなければお断り頂いて構いません。」驚きの潔い申し出に、躊躇(ためら)うことなく「ぜひ!」と応えた。何せベートーヴェンは他ならぬ私の最初の偶像(アイドル)だったから。

 

 実のところ、目下“オペラ脳”を患っている私に、ベートーヴェンはやや煙たい。ベートーヴェンを(わし)、ロッシーニを蝶と(たと)えたシューマンに敢えて(あらが)えば、こと“人間通”の度合いにおいて、フィデリオの作曲家はチェネレントラの作曲家にとても敵わない。哲人ぶる道化がベートーヴェンなら、ロッシーニこそ道化ぶる哲人だ!と(うそぶ)く今の私にとって、ともすれば昔の先生に気まずさ抱えた夏の大変な宿題ともなりかねない…。

 

 しかし届いた音源をいざ聴き始めると、そんな杞憂はいっぺんに吹き飛んだ。奇を(てら)わない真っ直ぐな演奏。にも関わらず、これまで聴いた実演や録音のいずれともまるで似たところがない。いかめしい権威たるベートーヴェン御大が君臨するのとも違えば、ピリオド・アプローチを通して作曲家の素顔が人懐っこく浮かび上がるというのでもない。音楽の奥へ奥へと耳は自然に誘われてゆき、音の激流がこれでもかと渦巻いても、その後ろにはハッとするような静謐が控えている。虚心坦懐の眼差しがスコアの未踏の領域を照らしだす。その虚心がどうもタダゴトでなく、人間ベートーヴェンの伝記的逸話や楽聖の音楽史上の共通認識など突き破りらゆる細部が﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽までの道徳律を振りかず照らし出し楽曲の最深部に沈み広がる世界から、響きの流れがひとりでにこんこんと湧き出してくるらしい。何より独特なのは、第1番から第32番まで、楽器の進化や様式の変遷をふむふむなるほどと訳知り顔で辿(たど)るような気を、なぜか一切起こさせないところ。全曲が一方向の時間の(くびき)を離れて、(あらかじ)め完成された一つの円環であるかのように、無時間の別世界を成している。それでもなお、あらゆる細部が生き生きと切実に脈動しているのだ。時が止まった今の私たちに瓜二つの在りよう。この共振は何だろう?と呟きながら全32102楽章を止め処なく聴くうち、思いも寄らない目眩(めくるめ)く幻想がくるくると巡り始めた。

 

 

 

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 ベートーヴェンの心の淵には、満々と水を湛えた鏡のような湖がある。その底にはギリシャのエピダウロスを思わせる石造りで擂鉢(すりばち)状の円形劇場が廃墟のように横たわる。ポール・デルヴォーの絵の死せる都に迷い込んだような静けさ。音のない毀れた世界。…と、何かが動く。ぼんやりとした薄闇に瞳を凝らすと、観客のいない舞台の上で、見えない十の指に操られた32人格(ペルソナ)が、おのおの奇妙な仮面(マスク)を着けて、主役脇役を取っ替え引っ替え奪い合いながら、シェイクスピアも真っ青の芝居をひっきりなしに演じている。始めは悲劇、続いて喜劇。歴史劇に幕間劇、田園劇に革命劇、英雄劇に恋愛劇…変幻自在の書割の中、ありとあらゆる性格が役者となって跋扈(ばっこ)する。馬上の勇者に地を這う乞食、老賢者に大香具(いかさま)師、守銭奴に聖愚者、貴婦人に孤児(みなしご)求道者(プラトニスト)享楽家(エピキュリアン)道徳家(モラリスト)無頼派(アナキスト)、天国の喇叭(らっぱ)手に地獄の門番。その無尽蔵の劇場に、しかし不思議と言葉はない。奴らは語るより先に(からだ)が動く。まして歌など待っていられない!とばかりに、すきすっぽうに踊躍(ゆやく)する。(かげ)りを帯びた面影と大袈裟な仕草が、人間の(もろ)さに震え、その真実を(さら)しつつ、悲しみ、(うら)み、裏ぎり、憎み、(ひが)み、(わら)い、笑い、娯しみ、愛おしみ、歓び、(いつく)しみ、讃える  三十二相の黙示劇(もくしげき)

 

 識ればゲーテを嫉妬に狂わせるであろうこの恐るべき戯曲大全をピアノひとつで描き得たのは、哲人ぶる道化か、道化ぶる哲人か。いや、道化にして哲人、哲人にして道化。重すぎる運命に心身を引き裂かれるあまり、過剰なまでの道徳を振りかざさずにおれぬ稀代の宿業を背負ったもうひとりのリゴレット。交響曲ではない、弦楽四重奏ではない、まして歌曲や歌劇ではない。ピアノという鏡を覗き込むベートーヴェンは、その孤独ゆえ、比類なき“人間通”となる。

 

***

 

「われらがうちの道徳律とわれらが上の星の(きら)めく天空!カント!!!††夢中の(ラプトゥス)状態で創作ノートに書き殴ったベートーヴェン。その“耳”を奪われた時  ピュタゴラス以来の、天空の秩序と響き合う調和(ハルモニア)(じか)に感得する悦びが失われた時  彼の内部の天球はひび割れ、破れ、毀れてしまった。ロマン・ロランに(なら)って今更ながら思い起こせば、そこからの彼の営みは、もはや現実には聴くことの出来ない響きを心の(うち)に探り、例えば(うずら)郭公(かっこう)の啼き声に至るまで、散乱した音の欠片(かけら)を記憶から掘り起こしては楽譜に記す、艱難辛苦の極みだった。

 

 しかしホンモノは一度(つぶ)れてから(よみがえ)る。毀れた星空の裂け目の向こう、漆黒の闇の奥から再び星々が(またた)くのにいつか気づいた時、私たちも聴き取ることが出来るのかもしれない。嵐と吹雪と雷鳴の中の「喜劇の大団円」と自ら名指したその死の床で、ベートーヴェンの内なる耳がついに捉えたであろう、“絶対の倫理”たる、ほんとうの調和(ハルモニア)を。

 

 明鏡止水の心が映す三十二相の黙示劇  同時代を生きるピアニスト、イリーナ・メジューエワから放たれた三十三番目の澄み切った眼差しは、ピアノソナタの知られざる全貌と本質を巧まず照らす。

 

 かくして、奪われた私のベートーヴェン年(Beethoven YEAR)は、恵まれたベートーヴェンの耳(Beethoven EAR)となった。

 

 

†:『ベートーヴェンの生涯』ロマン・ロラン/片山敏彦訳(岩波文庫)  ††:『ベートーヴェン 音楽ノート』小松雄一郎訳編(岩波文庫)

 

 

 

20201216日発売・BIJIN CLASSICAL《イリーナ・メジューエワ /ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集》(CD)ブックレットに掲載